2007年06月29日
2007年6月7日付 公明新聞より

白浜一良 参院選予定候補 大阪選挙区
広域防災拠点(大阪・八尾空港)大震災の惨状に白浜動く
突き上げるようなすさまじい揺れに、目が覚めた。1995年1月17日午前5時46分。白浜一良は大阪市内の自宅にいた。突然、床が弾んだ。と同時に経験したことのない激しい横揺れ。立つこともできない。震度7強の激震で6000人以上もの命を奪った阪神・淡路大震災。戦後最大の惨事は、広域防災拠点の整備へと、白浜を強く突き動かした【文中敬称略、肩書きは当時】。
「俺はもういい。父さん、逃げろ」
17日の地震発生直後から、白浜は地元大阪で、救援ボランティアの立ち上げに没頭した。混乱の最中、ラジオの音が耳に飛び込んできた。
声の主は倒壊家屋の下敷きになった息子を助けようとした父親。必死で引っ張り出そうとしたが、助け出せない。火の手が目前に迫った。「俺はもういい。父さん、逃げてくれ」。それが息子の最後の言葉だった。父親は「あと5分あれば……。悔しい」と言ったきり、絶句した。いつも冷静な白浜の目に涙があふれた。
道路網や通信網が寸断された救助の現場では、数十分の遅れが命取りとなる。政府の初動体制の遅れは明らかだった。被災地ばかりか全国各地から怒りが沸騰した。
大混乱の中で、救援活動に力を発揮したのが、ヘリコプターだった。特に、被災地に近い大阪・八尾空港は、自衛隊や大阪府警、大阪市消防局などのヘリコプター隊が常駐しており、救援輸送の臨時基地として、24時間体制で活用された。17日から3週間で3832人の人員を空輸。パン224万個、弁当42万個、おにぎり44万個を運んだ。
連日、救援物資の手配に奔走した白浜は、報道でこれらの事実を知った。「実効性のある航空隊が常駐する八尾空港に、広域防災拠点のシステムがあったならば、初動の段階で、もっと多くの人命が救われたはずだ」。白浜はすぐに動いた。
95年2月27日、八尾空港を視察。自衛隊の責任者から、震災直後の活動状況をつぶさに聞いた。責任者は言った。「空港には、早朝や夜7時半以降には管制官はいなかった。その代わりは、自衛隊員が必死で務めた」。白浜は、震災後も航空管制を強化しなかった政府の姿勢に怒りを覚えた。
視察に同行した府議選予定候補の井戸根慧典と、八尾市議の岩田年弘は、白浜の気迫と着眼点の鋭さに目を見張った。
3月1日、参院予算委員会で白浜は、八尾空港の管制体制を問いただした。運輸相の亀井静香は「管制は万全だった」とうそぶいた。白浜は叫んだ。「万全の措置などとっていなかった。夜中に管制官はいなかったではないか」。白浜の鋭い声に、亀井は黙るしかなかった。現場を踏まえた的確な指摘に、村山内閣の閣僚席に緊張が走った。
「関西圏の人口密集や都市災害の恐ろしさを考えて、防災基地的な整備を将来のためにやってほしい」。白浜の真剣な訴えに、国土庁長官は、災害時に国の中枢機能も代替できる東京の立川防災基地と同様の整備を検討すると答えた。翌日の朝日新聞には「八尾空港の防災基地化 前向き検討」との記事が載った。
ヘリポートや備蓄倉庫 中央防災無線も配備
新潟県中越地震で救援物資送る
大阪府議会では、白浜の動きと連動した井戸根が、八尾空港の防災拠点化を何度も訴えた。
府は97年3月、「八尾空港隣接地への大阪府中部広域防災拠点の設置」を明記した防災計画を策定。2000年には実施設計が行われ、建設工事が始まった。白浜は、工事の進捗状況も自らの目で確かめた。
03年9月、待望の防災拠点は完成した。13機が駐機できるヘリポートや救援物資の集配場、食料や生活必需品の備蓄倉庫を完備。災害時に国と現地対策本部をホットラインで結ぶ中央防災無線が国の予算で配備された。
04年10月に発生した新潟県中越地震の際には、同拠点から1万食のアルファ化米(非常食)や毛布、水などが輸送され、避難所の生活を支えた。
震災時、通産省近畿通産局の職員として神戸で救援物資の輸送に当たった太田房江(現・大阪府知事)は語る。
「白浜さんの尽力が力強い後押しとなり、広域防災拠点が完成した。大規模災害の際には、被災者のための“安心の砦”として役立つことは間違いない」
選挙情勢
定数3。公明現の白浜、自民現、民主新、共産元、国民新党新、社民新の有力6人に加え、元自民代議士も無所属で出馬表明。大混戦に。
前回トップの自民は支持団体固めに総力。比例に回る現職の後を受けた民主は知名度アップへ党組織がフル回転。共産は反与党層の取り込みで議席回復を窺う。元客室乗務員の国民新、市民団体役員の社民も浸透急ぐ。
これに対し、白浜は他陣営の挟撃の的に。白浜勝利のためには、3期18年の豊富な実績を武器に、新住民や青年層など、各層への拡大が急務。